湯浅誠,半貧困,岩波新書,2008

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)は、友人に紹介されて読むことにした本。著者の湯浅誠氏は、2008年の「年越し派遣村」などでメディアでよく報道されていたので、名前や活動の概略は知っていたが、紹介されなければ、自分から進んで手に取って読む本ではなかっただろう。

具体的な事例とともに、日本の貧困の現状がこれでもかっ!と描かれ、読み続けるのは苦しかったのだけれど、一度に読み切った好著。日本の貧困をどうにかせねばと考える社会派ばかりでなく、貧困は自己責任であると考える人、日本の現状を理解するために日本に生きるすべての人に読んでもらいたい。これを読めば、1歳と4歳の子供二人をアパートに残し餓死させた23歳の女性の事件がなぜ発生したか(2010年7月末現在新聞やテレビを賑わせている事件)、霧が少し晴れたような気がすること間違いなし。その女性が金髪だったとか水商売に従事していたとか、そんな報道よりもやることがあるだろう、日本のメディアよ。

なぜこの本を薦めるか

貧困は自己責任であるという考えを見直すことが必要

貧困は当事者の自己責任である。そう考えている人は、本書をぜひ読み新しい視点を入れて欲しい。自分には「溜め」(下参照)があるだろうか、周囲の人たちの「溜め」に自分がなれているだろうか、ということをまず考え、その上で、貧困者批判なり、支援なりを考えることが必要なようだ。そのためにも、まず、湯浅氏の考えを理解してほしい。

湯浅氏は、貧困につながる、技能がない、仕事がない、その日暮らしの生活をする...などは、当人が悪いとする「自己責任」論を批判している。正直、反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)を読む前は、私も当人が無責任で努力をしないからこのような状態になる、という考えがないわけではなかった。しかしながら、湯浅氏が言うところの「溜め」がないために発生してしまうという論に、自らの経験も踏まえ、非常に納得させられた。

ちなみに、「溜め」に関しては、p78に次のように具体的に述べられている。

溜めとは溜池の「溜め」である。大きなため池を持っている地域は、多少雨が少なくてもあわてることがない。その水は、田畑を潤し、作物を育てることがきる。逆にため池が小さければ、少々日照りが続くだけで田畑が干上がり、深刻なダメージを受ける。このように溜めは外界からの衝撃を鳩首してくれるクッションの役割を果たすとともに、そこからエネルギーをくみ出す初力の源泉となる。
溜めの機能はさまざまなものに備わっている。例えばお金だ。十分なお金(貯金)を持っている人は、たとえ失業しても、その日から食べるに困ることはない。当面の間そのお金を使って生活できるし、同時に求職活動費用ともなる。落ち着いて、積極的に次の仕事を探すことができる。この時貯金は溜めの機能を持っているといえる。...頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の溜めである。また、自分に自身がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは精神的な溜めである。

では、どうするべきか?

雇用のネットで支えられずに「働いていれば食べていける」状態になっていないにも関わらず、社会的なサポートが得られない。そのために家族内部にストレスが増幅し、だれも望まない結果をもたらす。
「どんな理由があろうと児童虐待」は許されないというのは正論である。しかし本当に必要なことは、子どもの虐待をなくすことであって、親の治療や処罰はそれに必要なかぎりで行えばいい。...真剣に考えなければならないのは、「悪いことを下から罰する」という短絡的な応報主義・厳罰主義ではなく、「被害をなくすために本当に必要なことは何か」といううことのはずだ。(p50)

正論をいうのは簡単だ。湯浅氏は、それよりも、虐待が起こらないようにするためには何をすればよいか考えるべきだ。と主張する。
冒頭で述べた2人の子どもを餓死させた女性のケースにおいても、議論されるべきは、金銭的な溜め、支援してくれる人間関係の溜め、精神的な溜めがなかったことであり、それを与えるにはどうしたらよかったのかという議論であり、「子どもを餓死させてなんて悪い母親だ」という報道ではないのだ。

それにしても、貧困をなくすためにあるはずの生活保護がこれほどまでに機能していないとは...。非常に恐ろしい現実を突き付けられたようだ。