平野啓一郎. 私とは何か. 講談社現代新書. 2012

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)、読了。「分人」とは個人Individualをさらに分けた存在、divisualである。私たちは、一個の存在として自分や相手を捉えてきたけれども、相手によって「自分」は変わる。ネットの自分と、職場の自分、高校の友達といる私と、大学の友人との私、家族といる私と、ちょっと気になる友人といる私。人は、自然と相手に応じて違う自分になる。これは、本来の自分があるけれども、キャラや仮面として異なる相手に異なる姿で対応しているのだという考え方とは違う。コミュニケーションは、相手とのインタラクションによって初めて成立するものであり、私たちは、相手とのコミュニケーションを達成するために、調和するポイントを模索し、コミュニケーションを成功して喜びたいから適切な「分人」が出来上がる相手なしに「分人」は存在しないし、自分が好きなのであれば、半分は対する人のおかげだ。「私」は、自分を取り巻く人たちと緩やかにつながり変化しあう「分人」の集合体である。 
 

読んだきっかけ

知り合いが「分人」という言葉を使っていて興味を持った。別に「私とは何か」に悩んでいたわけではないけれど、「様々な自分」がいることで自分の行動や考えに一貫性を持たせるのが難しい事を感じていて、折り合いをつける方法を探していた。
 
読了して初めに感じたのは、帯にも書かれていた「生きるのが楽になる」という感覚だった。無理して自分を枠にはめ(おそらく自分で作った「私とはこういう人」という枠)、その枠に合うように振る舞う必要がないということと、「隣人の成功を喜ぶ」いい人でいることは、人生戦略的にも意味があることだとわかったこと、相手とのコミュニケーションがうまくいかないのは分人化がうまく行っていないからかもしれないこと。この3つの学びは、今まで自分が感じていた「生きずらさ」をかなり解消してくれる気がする。
親にも、友人にも...いろんな人に勧めたい書籍。

どのあたりがおすすめか

「私とは何か」について、具体的に悩んでいるわけではなくても、人間関係には多くの人が悩むことがあるだろう。「私とは何か」だけではなく、人間関係に悩む人にも、ちょっとしたヒントがたくさん隠されている。私が、おすすめする理由は、次の私の第三発見による。

自分を枠にはめなくて良い 

私はこういう人だと、勝手にレッテルを貼られることが嫌だ。例えば、海外にお嫁に行ったってことは、海外に骨を埋める覚悟なんでしょう?と聞かれるのが嫌だ。相手に自分のことを認めてもらいたい場合、私のその部分じゃなくて、私のこっちの部分を見て、私を判断して欲しい欲しいと考える。そんな私でも、あえて「海外に住んでいる」という事を公開して、その事実をベースに話を展開することもある。個人ではなくて、分人であると考えることで、対応が違っていいということになる。
p.36 . 私たちは他人から本質を規定されて、自分を矮小化されるのが不安なのである。

隣人の成功を喜ぶのが良い

人間関係にちょっと疲れたりした時、相手に嫉妬する時には、対応が雑になりがちだけれども、分人を通じて相手に影響を与えているし、与えられていると考えると、相手に真摯に対応することを自分に課すことができる。
p.165. 私たちは、隣人の成功を喜ぶべきである。なぜなら、分人を通じて、私たち自身がその成功に与って(あずかって)いるからだ。私たちは隣人の失敗に優し手を差し伸べるべきである。なぜなら、分人を通じて、その失敗は私たち自身にも由来するものだからだ。
この書籍を通じて、良い人間関係を多くの人と築いていきたいと心から願わされた。

コミュニケーションを成功させるには?

私は、人とコミュニケーションを取るのが苦手である。相手に惚れ込んでしまうと、自分のことを知って欲しくて段階をすっ飛ばして本題に入ってしまう。だが、コミュニケーションを一緒に作り上げていくためには独りよがりではいけない。そんなシンプルなことを私は知らなかったようだ。

p.85.お互い気持ち良い分人化を進めるためには、相手がどういう人なのかをよく見極めなくてはならない。...重要なのは柔軟な社会的な分人がお互いの内にあることだ。
あまりにも興味深くて考えたいこともたくさん出てきて、最後まで一度に読み通すというよりは、数日かけて咀嚼しながら読んだことも記録しておく。

関心を持った箇所

p. 8. 分人の構成比率が変われば、当然個性も変わる。個性とは、決して唯一不変なものではない。そして、他者の存在なしには、決して生じないものである。
p.35. コミュニケーションは他者との共同作業である。会話の内容や口調、気分など、全ては共同作業の中で決定されていく。なぜか。コミュニケーションの成功にはそれ自体に喜びがあるからである。
p .42 夏目漱石 私の個人主義. 私は始終中腰で隙があったら自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで無いようで、どこを向いてもやっと飛び移れないのです。私はこの世に生まれた以上何かしなければならん、といって何をして良いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ちすくんでしまったのです。
p48. 人間は一生の間に様々な「事を為(す)る」。...職業というのはなんであれその色々な「為る事」の一つに過ぎないが...もっとも長い時間を費やす事であるには違いない。だからこそ、自分の本性とマッチしたものでなければ耐えられないはずだ。
p.66. 私たちはごく自然に相手との個性の間に調和を見出そうとし、コミュニケーション可能な人格をその都度生じさせ、その人格を現に生きている。それは厳然たる事実だ。なぜならコミュニケーションが成立すると、単純に嬉しいからである。
p.80. ロボットと人間の最大の違いは、ロボットは今のところ、分人化できない点である
p.81 八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。むしろ誰に対しても同じ調子のイイ態度で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人である。
p.115 なぜ...閉鎖環境は過酷なのか。...多様な分人化の機会を奪われているからではないか。私たちは日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。...どんなに子供が可愛くっても、家に閉じこもって毎日子供の相手ばかりしている…と気分転換に外に出かけて、友達と外に食事でもしたくなるだろう。
p.169. 何もした覚えがないのに相手の様子がおかしい時には、別の誰かとの文人があなたとの文人に染み出している可能性がある。分人同士が相互に影響し合い、浸透し合う状態だ。